なぜ宗教曲を歌うのか?
こんにちは、西洋かぶれの第53代アルトパートリーダーです。随分恐れ多いタイトルになってしまいました…笑 拙い文章ですが、ふと練習の中で考えたことをつらつらと書いていこうと思います。
キリスト教徒でもない私たちがなぜ宗教曲を歌うのか。その疑問を思い出したのは、松下耕先生のワークショップにてだと思います。
私の場合、身も蓋もなく言ってしまえば、「サークルの伝統だから」なのかもしれません。しかし改めてこの問題について考えると、様々な考えが浮かんできました。
宗教曲の中では、神という絶対的な存在に対する畏怖や讃美、祝福、祈りといったテーマが描かれています(私たちが定期演奏会で歌う2ステージで扱う曲も例外なく)。そのためキリスト教徒が歌う場合、確かに歌を捧げる対象は神そのものであり、それを聴くキリスト教徒も神に想いを馳せるでしょう。
しかし残念ながら私は神を信じていません。私のような人は日本には多いと思います。神について熱く語られても、はぁ…といった感じです。じゃあ私が宗教曲を歌う意味はないのでしょうか。
合唱はそもそも、誰かと感情を共有するものだと思うのです。もっと広く言えば、音楽がそういうものだと言えます。しかし合唱ではさらに歌い手側も大人数が一体となることが求められます。時には悲惨な戦争や、迫害された民族の経験を代弁するかのように歌うこともあります。宗教曲のように祈りを捧げることも、キリスト教徒への理解、歩み寄りだと私は感じています。そしてこうやって歌わなければ考えることもない他者について歌うのは貴重な経験だと思います。
チャペルアワーなどに参加して感じるのは、キリスト教は決してキリスト教徒にしか通じないような特殊なことを説いているのでなく、人間全般に共通する教えを説いているということです。(たとえば隣人を愛しなさい、とかはそれこそ他者への理解だと思います)そして静かに悔い改める機会を与えてくれます。
何はともあれ、歌うことで歌い手、そして観客の皆さんと一体になれるステージを目指して精一杯歌います。もちろん宗教曲ステージだけでなく、全ステージ本気ですので楽しみにしていただけると幸いです。