ゲルノブログ

同志社コール・フリューゲルの公式ブログです。

「あぶく」と「まぼろし」

こんにちは。外政サブの次期三回生外政の者です。12/8の定期演奏会に向けて、日々練習を重ねています!

どのステージも大好きで、どの曲も歌うたびに愛着が増していきます。定期演奏会が終わるともう練習しないんだ、と思うと少し寂しいです。。

ブログは誰が何を書いてもいい、と聞いたので技術陣や幹部がエモいことを書く中恐縮ですが、今回は私が一番好きな曲を少しだけ紹介したいと思います。紹介したい曲は、第四ステージ 松下耕混声合唱とピアノのための『すこやかに おだやかに しなやかに』」谷川俊太郎 作詞 より 4.もっと向こうへと です。定期演奏会で歌う曲はどれも本当に大好きなのですが、この曲を最初に聞いた時の衝撃は忘れられません。同じ歌詞を4パート、別々のところから重ねて入る部分があり、いろいろな音とたくさんの歌詞が一気に聞こえてくる様子がとても面白いです。また、その掛け合い部分の歌詞のフレーズが、私は少し気になります。

  いま見えている世界はただのあぶく

ここに出てくる「あぶく」という言葉は、アクセントが普通(標準語の場合)“ぶく”につきます。(NHK日本語発音アクセント新辞典より)大抵このような場合は、アクセントが付く言葉の部位(今回では、ぶく)を他の部位より高い音で歌います。ですが、ここの「あぶく」を四声で掛け合うとき、アクセントはソプラノが低高低、アルトが高低高、テナーは低低高、ベースが高高?低となっており、正しいアクセントであるはずの低高高をどこのパートも歌っていません。私は今回一つの辞典しか見ていないので「あぶく」の他の標準アクセントを見落としている可能性は大いにあるのですが…  ソプラノが結構目立つので、ここで低高低がしっかり聞こえることにあれ?となる方も多いのではないでしょうか。  またここの「あぶく」は掛け合いなので、ソプラノアルト男声がバラバラの入りをします。三つのバラバラです。またそして規定通りでない?アクセントを用いていることから、意図的に松下耕先生はここの部分を目立たせたかったのかな?と考えます。綺麗に揃うハモりで目立たせるのではなく、このように目立たせているねらいはまだ完全には分かってないのですが…

この「あぶく」の後ろの歌詞はこのようになっています

  世界はただのまぼろし

ここの「まぼろし」の部分は、四声の掛け合い時、外声(ソプラノベース)と内声(アルトテナー)が同じ動きをします。「あぶく」が三つのバラバラであったことに対し、「まぼろし」は二つに分かれているだけです。分け方も変わっています。

また、「まぼろし」のアクセントは“ぼろし”につきます。四声部で一声部、アルトだけ正しいアクセントで歌います。(外声はアクセントなし、テナーが“ぼ”にアクセント)他三声をアクセントなしや別アクセントにしたことが少し私的にちゃんと読み込めていないのですが、、

ごちゃごちゃ書いたのですが、まとめると、このようになっています。

○「あぶく」はソプラノ、アルト、男声で入りが別であることに対して、「まぼろし」は外声、内声の二つの入りになっている。

○「あぶく」には(恐らく)正しいアクセントが使われていない。また、アクセントの仕方は4声バラバラである。「まぼろし」は(恐らく)アルトが正しいアクセントとなっており、外声のアクセントは同じになっている。テナーは別アクセント。

拙い文でわかりにくくて申し訳ないのですが、掛け合いにおいて、「あぶく」と「まぼろし」は楽譜上で明確な違いが示されています。また、どちらもたいていのパートに特別なアクセントがつけられており、他の言葉よりも強調されています。松下耕先生は「あぶく」と「まぼろし」の二つの言葉を強く訴える他、この二つが別物だと強調するためにこのような作曲をなさったのだと考えます。言うまでもありませんが「あぶく」は泡の意。泡沫の恋、なんて言葉があるように、泡ははかないものの例えとして使われます。あぶく=はかないもの、と捉えるのであれば、今回の調査?をもとにすると、まぼろし≠はかないもの になるのかなぁと思います。「まぼろし」とはふんわりとしたぼやぼやとしたはかないもの、それこそあぶくのようなイメージで捉えられることは多いと思いますが、今回はそうではない、と私は解釈します。

ここからは本当に私の勝手すぎる解釈なのですが、「まぼろし」は ≠はかないもの、なんてことに収まらないほどの、非常にねっとりとしたしつこいものなのかな、と考えます。だからこそ、次にこのような歌詞があります。

目覚めよう 間違った夢から

この歌詞はフォルテッシモで歌われます。また、その直後ジャーンジャンジャーーーンと激しい音でピアノが入ります。夢=まぼろしと捉えるなら、この部分で私は「まぼろし」を頑張って打ち砕いてる、引き剥がしているのかなと思います。

ここでの「まぼろし」なのですが、私は愛の幻影だとか、楽しかった思い出、悲しい記憶、全部を含めた過去のようなものを指しているのかな、と思います。ちょっと疲れてきたので詳しい解釈はあまり書かないですけど、『愛が消える』とか『おだやかに』の詩を見てその解釈がしっくり来たというか、私自身が過去に囚われがちな人間なのでそう考えるだけかもしれませんが‥‥ そのような過去、幻影に囚われて進むことができないからこそ、フォルテッシモとピアノのジャンジャンジャーンの前までは悲しげとまではいかないけど切ないような曲調で、四声部カノンのような掛け合いがループしているのかなと思います。(楽しかった思い出とか悲しかったこととかあのときどうだった、こうすればよかった、みたいなのを何度もぐるぐる考えちゃうみたいな)

まぼろし」との戦いに勝利すると、この曲は今までの切ないような曲調とはガラッと変わり少し怖いくらいに明るくなります。靴の裏についてたガムが取れて、スッキリ歩ける!みたいな感じでしょうか。ピカピカの靴で出歩く先がどんなところかはわかりませんが、あかるい、眩しいエネルギーのあふれる場所、もしかすると第1ステージ『たましいのスケジュール』のキーワード、天国のような場所なのかなぁとも思います。もっともこの曲集での天国はやや皮肉めいて描かれている(と私は解釈している)ので、ワット的な意味で近い、ということになりそうです。過去を打ち破った先は眩しいほど明るいのでしょうか。今年のゲルの集大成、そしてこれからまだまだ続くゲルの明るい未来を願う、定期演奏会のラストに相応しい曲だなとしみじみ感じます。ソプラノは高くてめちゃめちゃ大変だけど、ラストのソの音は最高に気持ちがいいです。

この曲はまだまだ解釈を載せたいし考えたいことが他にもあるのですが、、(ベースの世界をありのままにの音程とか)明日朝から早朝バイトなのでそろそろ寝たいと思います。拙い文章をお読みいただきありがとうございました。

ぜひ私の大好きなこの曲を聴きに、他のステージも聴きに、定期演奏会、ぜひお越しください!